メジュゴリエの偽聖母

カトリックの一部の者が惑わされている私的啓示「メジュゴリエの聖母」は神からのものではありません。それは公にも私にも容易に確認ができます。

2:5 カトリック信仰は聖霊降臨派のしるしと不思議なことに対し何というか

第2部メジュゴリエ

カトリック信仰は聖霊降臨派のしるしと不思議なことに対し何というか。(霊の識別:2-5)

 

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 もし、ピオ12世の在任のときに、あるいはピオ12世以前の諸教皇の時に、カトリック信者が『聖霊による洗礼』を授けてください、と聖霊降臨派の牧師に頼もうなどと思ったら、どういうことになっていたでしょうか。

 1948年6月5日、聖省は、カトリック信者が「非カトリックの宗教儀式に、いかなる仕方であれ、能動的に出席し、あるいは参加すること」を禁じている教会法典第1258条について、再度注意を喚起しました。言わんや、プロテスタントの本質的な儀式を受けるのは厳重に禁止されていたのです。なぜなら、宗教儀式は常にある信仰、ある信念の表現であって、儀式とか礼拝様式といったものはその信仰内容と切り離しがたく結び付いているからです。

 聖霊降臨派の『洗礼』を求める、というそのこと自体、その儀式が正当なものであること、その儀式が価値をもち、効果がある、ということを前提にしなければできないことです。つまり、効果がある、ということは、その教えが正しいということを意味しているのです。

 したがって、異端の宗派に全く身を投ずるという、行為をすることによって、彼はカトリック信仰から背反し、背教することを意味しているのです。

 もう一度、この運動がプロテスタントによって、カトリック教会の中に持ち込まれたことを確認しましょう。一体誰が、この運動の創立者の第一歩に、既に背教の行為がなかったなどと言えるでしょうか?

 私たちが、我らの母なる聖なるカトリック教会の懐に洗礼の秘跡によって受け入れられるという、すばらしい恵みをいただき、この不肖なる身にかくもかたじけない名誉を授かった後に、どうして、のこのこと偽りの教会に行けるでしょうか?!

 しかも我々は洗礼という、前代未聞の極み無き恵みをかたじけのうしたばかりか、聖霊の恵みの充満である堅振の秘跡を受け、ご聖体で養われているのです。それにもかかわらず、そのほかに、新しい洗礼、新しい聖霊の賜物を、異端のセクトにどうして物乞いすることができましょうか?!それこそ、キリストとその聖なる花嫁、ローマ・カトリック教会に侮辱をはきつけることではないでしょうか。

 キリストは天主として、ご自分の花嫁であるカトリック教会を、ご自分の聖寵と真理との唯一の保管庫、分配者、として地上に創立されました。だから、聖霊が本当に現存され、実際に働かれる場所である、キリストの本当の神秘体、すなわちカトリック教会にこそ聖霊を探さなければならないはずではありませんでしたか。この救いの方舟、すなわちカトリック教会以外に、主は目に見えて、あるいは目に見えないやり方で、働かれようとは望まれませんでした。主はこの方舟を、私たちの救いのために作り、それ以外のものは一切無効とされるのです。

 聖霊降臨運動の創立者は、一体なぜ、聖霊のいないところに聖霊を探し出そうとするのでしょうか?これこそ聖霊に対する罪ではないでしょうか?忘恩の反逆の子らは、自分の受けた洗礼の恵みを無にして、キリストの真の恵みを軽蔑し、彼らの母なる真の教会によって豊かに与えられた、愛と真理の霊の賜物を侮るのです。カリスマ運動の第一歩はこの裏切りにありました。カリスマ運動の第1の行為はこの背教でした。

しかし、ルネ・ロランタン神父は、はばかりも無く「この運動の起源は模範的である[!]」と書いているのです。オコーナ神父も、「『聖霊による洗礼』の経験、カリスマの出現は、ここでも[カトリック教会でも]よそと同じく[!]聖霊が働いていることは、疑う余地はない」などと平気で書いているのです。もはやオコーナー神父にとって、この運動がカトリック教会内に始まるまでは、カトリック教会で聖霊が働いているのかいないのか疑いの的であったのです!

 この背教の第一歩を踏み出したのをご覧になったキリストのお考えは、いかがであったでしょうか。天主の御独り子は、唯一の教会の花婿にして頭は、これを見て何と思われたのでしょうか。

 預言者イェレミアはこう言う「だが、おまえたちは、そこに入ると、すぐ私の地を汚し遺産をいとわしいものと変え、主はどこにおられるかと、祭司たちも尋ねなかった。律法を学ぶ人々も、私を知らず、牧者は背き、予言者はバアルの名で預言し、役に立たぬものに従った。…私の民は自らの光栄を、役に立たぬ空しいものに取り替えた。天よ、驚け、わななき、驚愕せよ──主のお告げ──。私の民は、二重の罪を犯したのだ。我らは水だめを、ひびが入って、水のたまらぬ水桶を掘ろうとして、生きる水の泉である私を見捨てたのだ。」(2;7~8、11~13)きっとこれを感じられたに違いありません。

 何と嘆かわしい歴史上のスキャンダルか。すぐさま多くのカトリック信者は、司祭は、修道者は、修道院ごと、「聖霊による洗礼」を物乞いし始めるのです。全くカトリックの聖伝に関係ない按手をもって、機械的に、即席に、見よ!「霊の実り」を受けるのです。

 彼らはこのカトリック教会とは無関係のイニシエーションを受けた後、今世紀初頭からペンテコスタルの懐で広まっていた「霊」の感覚的・感情的体験をし、異語で話しだし、預言し、癒しを行うのです。そして彼らはこう言います。「霊が戻って来た!」と。

 「戻って来た」とは、一体何事でしょうか!アグネス・オズマンのお陰により、そしてフロレンス・ドッジに謙遜に(!)カトリック教会にも聖霊を嵐と吹かせてください、とお願いに上がったあの4人のお陰で、ついに聖霊は、戻って来た、と言うのです。この新しい力、新しい能力、1901年以来プロテスタントには吹き荒れていた「霊」は、今吹き始めたのだ!彼らはこう叫んでいるのです!!

 更に、我々は、聖霊降臨派がいくつかの点で、カトリック信仰と全く正反対のプロテスタントの教えを宣言していることを忘れてはなりません。聖霊降臨派の人々は、様々な点でカトリック信仰を非難攻撃し、カトリック信者らを愚かな狂信へと走らせていたことを指摘しなければなりません。

 たとえ彼らが異語で話しましょうと、癒しをしましょうと、はたまたその他さまざまなカリスマをもっていましょうと、彼らはご聖体に於けるキリストの現存を信じていません。いとも聖なる聖母マリアのいろいろな特権を信じていません。彼らはカトリック洗礼の有効性を拒否します。(P. H.-Ch. Chery, L'offensive des sectes, Cerf, 1954, p339, in Medjugorjie en toute verite )

 60年代以前には、ペンテコスタルのリーダーたちがする異語、あるいは癒し(それが本物の癒しであれ、単なる思い込みであれ)が、聖霊の実りである、とするカトリック神学者はただの一人もいませんでした。カトリックの聖伝によれば、聖ヴィンセント・フェリエと聖フランシスコ・ザビエルとは外国語を話す、と言う意味の異語の賜物を受けたと言われていますが、それは確実に実証できる訳ではありません。

 反対に、カトリックの祓魔師たちはこの不思議な異語の現象をよく知っていました。この点に関して聖伝の教えはほとんど一致していました。そのため、『ローマ儀式書(Rituale romanum)』は、知らない言葉で話し出すことを、悪魔に取りつかれた外的印として、その最初に挙げているのです!

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