メジュゴリエの偽聖母

カトリックの一部の者が惑わされている私的啓示「メジュゴリエの聖母」は神からのものではありません。それは公にも私にも容易に確認ができます。

13 イワンの嘘(メジュゴリエ)

13 イワンの嘘

f:id:medjugorje:20180406232052j:plain

 出現の最初の月からゴスパは印を約束しました。この印は、メデュゴリエの正真性を証しするものとなるべく、与えられると約束されました。

 1981年8月27日、ゴスパは「直ぐ来るでしょう」と言いました。

 8月29日、「もう少し忍耐しなさい。」

 9月3日、「もう少しだけ忍耐しなさい。」

 遂に、待望の印は1981年の12月8日に与えられるとゴスパは約束します。ところが、その約束も同じ年のクリスマスに延期され、更に翌年の1月1日に延期され、最後には幻視者は「私たちはそんなことは言いませんでした。」と宣言しました(!)。

 ファチマの第3の秘密をヒントに、ザニッチ司教は1982年5月10日、調査委員会の二人の委員を派遣し、幻視者にこの大いなる印とは何なのか、いつ起こるのかを書かせるように要求しました。彼らの書いたものは封印をされ、この出来事が起こるまで閉じられることになっていました。

 しかしヴラシッチ師はこのことを知り、幻視者たちに、聖母は厳しく書くことを禁じたと答えるように求めました。しかし、その当時ヴィソコの神学校にいたイワンだけは、ヴィラシッチの手が及びませんでした。従ってイワンは、司教が彼に求めたことを何も反対せずに、2部書きました。封筒の1つは封印をされて神学校のイワンの友達の兄弟に預けられました。もう一つはモスタールの司教に預けられました。1984年10月30日に司教はレポートを書きますが、この印について、幻視者たちの矛盾した態度を指摘しています。すなわち、イワンは、ゴスパは自分が印について書いたことを何ら叱らなかったことを保証しますが、他の幻視者には禁止したのだというのです!

 しかし、1985年になりますと、イワンは、おそらく自分が書いてしまったことに不安を覚えたのでしょうか、この2通の封筒を取り戻そうとします。彼はその当時、その封筒の中に「何もない、何もない、何もない!」としか書かなかったと言いました。その当時ロランタン師は誇らしげにこう解説しました。「すなわち、私は何も書くことは出来ません。聖母は私にそうすることを禁止しました、と言う意味だった」と。

 しかし、おかしなことにイワンはこの封筒が開封されるのを望みませんでした。イワンはそのうちの1通を取り戻すのに成功しています。人はそれをイワンに求めましたが、イワンはそれを無くしたと言いました。「イワンはそれを本の中に挟んだ、と思っていましたが、もう見つけることは出来なかった」とロランタン師は説明します。

 3月7日、ザニッチ司教は、司教館にまだ封をされてあった封筒を持たせて、委員会の二人の委員をイワンのもとに送りました。次に、イワンは、その中には何も書かなかったと彼らに保証しましたので、司教はもはや印が起きるまで開封を待つ理由が無くなってしまいました。そこで、司教はイワンに封筒を開封をしても良いかと尋ねました。イワンは開封に同意せざるを得なくなりました。イワンの同意を得ると、委員は司教のもとに帰りました。彼らは封筒を開封し、中身を読みました。イワンは確かに、次の通りの何かを書いてありました。

「聖母は、印を残すでしょうと言われました。すなわち、私の出現を褒め称えて、メデュゴリエにある大きな至聖所が出来るでしょう。この至聖所は私のイメージに従うでしょう。印は、第6の月に起こるでしょう。

署名:ドラギーチェヴィッチ・イワン」

 この全く意味のない印が本当に約束された印なのでしょうか?3月9日に、スラヴコ師がイワンに質問します。イワンはこう答えました。

「私はあなたが何故来たか知っています。委員会は封筒を開いて、中に何かを読んだのでしょう。でも、それは印でもなければ、その日付でもありません。」

 従って、私たちはこう言わなければなりません。まず1982年5月10日、彼は印について本当の印を書かなかったことによって、最初の嘘をつきました。次に、彼は「何も書かなかった」と言い張って第2の嘘をつきました。更に、彼は「取り戻した封筒を無くした」と言って第3の嘘をつきました。

 既に述べたように、ヴィッカはその日記についても嘘をつきました。

 別のところでは、ヴラシッチ師も天主に誓って嘘をつき、偽証しています。

 1985年1月14日のヴィッカの嘘の後、上のようにイワンも司教に嘘をつきました。

 こうして、度重なる幻視者とその周りの司祭の嘘を見ますと、ザニッチ司教の厳しい残酷な言葉が良く理解できます。「メデュゴリエの幻視者たちは嘘つきである」と。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

12 ヴィッカの嘘(メジュゴリエ)

12 ヴィッカの嘘

f:id:medjugorje:20180406232052j:plain



 1985年1月14日の晩、出現の時刻は迫りました。ここは一つの小さな部屋。メジュゴリエの村の人々や、ドイツ人のカメラマン、また、スラヴコ・バルバリッチSlavko Barbaric神父(メデュゴリエの教区の助任司祭でヴラシッチ神父の後継者でカリスマ運動書)、トミスラヴ・ペルヴァンTomislav Pervan神父(教区の主任司祭)、ルイ・ベランジェLouis Belanger(カナダ人の研究家、やはりビデオ・カメラを持っていた)、ジャン・ルイ・M(Jean-Louis M.メジュゴリエに住み着いて9ヶ月になるフランス人のメデュゴリエ信奉者、しかし出現の信憑性を疑いだしていた)などがいました。幻視者たちが到着し、跪き、「脱魂」が始まりました。

 このとき、上で最後に名前を挙げたフランス人がいきなり、人差し指と親指を立ててヴィッカの目に猛烈に突き刺そうとしました。ヴィッカはびっくりして頭を後ろに反らせてそれを交わします。皆は一体何が始まるのかと自問自答し始めました。この様子は2つのビデオカメラに撮影されました。ヴィッカの後ろにいたスラヴコ・バルバリッチ神父は、明らかに嬉しそうではありません。「出現」の儀式は終わり、皆は帰っていきました。例のフランス人はバルバリッチ師に言います。

「あなたは私がしたことを見ましたか?実験でした。私はヴィッカに、自己保存の本能を呼び起こす刺激を与えてみました。そして、あなたが話していたこととは全く反対に、彼女は反応しました。以前の実験は偽物でした。私のした実験は聖母が出現になっていないということは証明しません、しかし、子供たちが確かに外的な刺激に反応すると言うことを証明しています。何故あなたは嘘をついたのですか。」

バルバリッチ師は、落ち着かず、居所を失ったようでした。彼はそのまま祈りに出かけました。このフランス人はカナダ人のルイ・ベランジェに「あなたは録画したでしょう?この画像は非常に重要です、証拠になります。」と言いました。

 バルバリッチ師は非常に狼狽していることを隠すことが出来ませんでした。しかし、彼はミサを捧げなければなりませんでした。ルイ・ベランジェとドイツ人カメラマンはまだ「出現」の部屋に居残っていました。数分の後、扉が開き、ヴィッカが微笑みながらしかし、顔を少しこわばらせて入ってきました。そして彼女の後ろには、追放された二人のフランシスコ会士のうちの一人イヴィカ・ヴェゴIvika Vegoがいました。ヴィッカはとても興奮していました。彼女は自分の唇をかんでいました。そして言いました。

「私はジャン・ルイさんも、彼の手も見ませんでした。私は聖母を見ました。聖母は幼きイエズス様を腕に抱えておられました。すると、幼子イエズスは腕から滑り落ち、私はただイエズス様が落ちないようにとしぐさをしただけです。それだけです!」

 ロランタン師は、この出来事を意味のないたわいのないことと言って、もみ消そうとしています。しかし、メデュゴリエの専門家は、故意の省略や隠し事と嘘の専門家で、ヴィッカのした戯けた説明を省略します。私たちは、この出来事において、メデュゴリエの核心に迫っているのです。一体幻視者と自称する人たちは、誠実なのでしょうか。彼らが聖母を見たと主張するとき、本当に彼らを信じることが出来るのでしょうか。

 実にこの出来事の数ヶ月前から、ヴラシッチ師や、バルバリッチ師、ロランタン師も、幻視者たちは脱魂状態の時には「不動で、外界とはいかなる連絡もない」と言っていましたし、ヴィッカもブバロ師のそう断言していたのでした。この晩のバルバリッチ師の狼狽が何故かがよく分かるでしょう。

 ヴィッカの証言をよく見ますと、彼女は二重の嘘をついていました。まず、ヴィッカが本当に幼きイエズスが聖母の腕から滑り落ちたのを見たとは考えられません。更に、前に身を乗り出して腕を差しだし、イエズスを受け取ろうとする代わりに、身を後ろに反らして「イエズス様が落ちないようにとしぐさをした」というのはあまりにも愚かで馬鹿馬鹿しいことです。また、たとえ仮にイエズスが聖母の腕から本当に滑り落ちそうとしたとしても、どうしてジャン・ルイがヴィッカを攻撃しようとしたその瞬間に落ちそうになるのでしょうか。奇妙な一致です。ヴィッカはどうしても幼きイエズスを伴った聖母の出現の話をでっち上げたとしか思われません。

 ヴィッカによれば、1981年の最初の出現からその時までおよそ1300回の出現があったそうですが、幼きイエズスを伴って聖母が現れたのはそのうち3回しかありませんでした。ヴィッカは、決して、彼女の言うところの「マリア様の腕の上に不安定に見えた」幼きイエズスを見ていたのではありません。ヴィッカが見ていたのは、私たちがビデオの録画で見るように、目に入ろうとするジャン・ルイの指でした。彼女のこの瞬間の反応があったことをだれもその晩は否定しませんでした。バルバリッチ師も、ペルヴァン師も、ヴィッカ自身も!しかし、ロランタン師は、ヴィッカがそのような本能をしたことを躍起になって否定しようとしています。そこで、1月27日から、誰一人として出現の部屋に立ち入ることが出来なくなったのです!

 神秘神学において、天主から特別な聖寵を賜った霊魂には、合法的な長上の命令に堅く従うように天主は命じられることが知られています。脱魂中の聖人でも、その長上が彼に命じると直ぐに平静の状態に戻りました。

 1984年8月、ザニッチ司教は教会の伝統的な規律を押しつけました。司教は、「出現」の正真正銘性を疑うべき充分な証拠がありましたので、ヴラシッチ師に教会の中で幻視者の「脱魂」が起こることを許してはならない、もし脱魂するなら、自分たちの家とか、個人的なところでのみ、と言うことを命じました。しかし、ヴラシッチ師は従順することを拒みました。そこで、彼は9月に隣の教区に人事異動となりました。10月31日、司教は同じ命令をスラヴコ・バルバリッチ師に与えました。彼も従うことを拒みました。1985年1月1日、司教はこれを今度は教区から追放する命令を出します。しかし、フランシスコ会の地区長はこれを追認するのを遅らせました。1月31日司教は、1週間以内に教区から出ていくようにと同じ勅令を繰り返します。しかし、この間に、司教の禁止にも拘わらず、毎晩教会内で出現がありました。

 1月3日、イワンは脱魂中に「聖母」がこう言うのを聞きました。

「私はスラヴコ[バルバリッチ師のこと]がここに留まることを望みます。彼が命を導き、新しい命を集めるように。それは私がいなくなった後にも、全て起こったことの完全なイメージが残るためです。私が特に今、スラヴコのために、この教区で働く人々のために祈ります。」

 スラヴコ・バルバリッチ師は8月までそこに留まりました。カトリック教会の伝統的な神秘神学によれば、現代の最も高度な医学上の試験よりも、神秘的が現象が天主からのものか悪魔からのものかを見分けるのには、合法的な権威に従順であるかどうかと言う試験の方がもっと意味と価値があり、神学的であり、すなわち科学的です。しかし、これらカリスマ運動をしている人々に、このことを説明しても、彼らは聞く耳を持っていません。

 ザニッチ司教は1985年3月にドレクロ神父にこう尋ねられました。

「あなたは元々、出現には反対ですか。」

「いえ、その反対です。私はルルドには8回行きました。私は巡礼団を組みました。私はマリア様の信心に大賛成です。私はバヌーBanneux、ボランBeauraing、シラクサSyracusaと言った教会から認可を受けた聖母の3つの出現地に行きました。」

「でも、メジュゴリエの出現は納得しないようですね。」

「私は自分の司教区に別のルルドがあったらどんなにいいか!と願います。これは、本当に偉大なことです。でも、私は天主様の前で、私の良心の前で、教会の歴史の前で、このメデュゴリエの出現が本当で超自然のものであると宣言することはできません。」

「あなたはまだ政府からの困難を恐れますか」

「現在は全ては落ち着いています。・・・しかし、私が思うには、メジュゴリエの周りの感情的な興奮が、幻滅に場所を譲って落ち着くとしたら、一体何が起こるでしょうか?共産主義者たちはルルドやファチマ、キリストや、カトリック信仰が、全てメジュゴリエ以上には価値がない[つまり全く価値がない]と結論付けるでしょう。そうなったら、教会の権威の失墜でしょう。」

「最後の一言は?」

「確かに私は罪人であって、司教には相応しくない人間です。しかし、私はもしそれが全て嘘であると知りつつ、偽りを言うがままにさせていたとしたら、それこそ私の人生の全ての罪の中で最大の罪となるでしょう。」

 ザニッチ司教は、毎日のように、世界中のカリスマ運動の人々から、霊の名において侮辱を受けています。司教は言います。

「私は馬鹿か悪魔付きであるこのように取り扱われています。私は全てを崩壊させ、出現に関わる全てに反対するものであると告発されています。私はサタンの人となった生まれ変わりだと言われています。」(La Libre Belgique, 11 avril 1985)

 ヨハネ・パウロ2世によって「パウロ6世賞」を受けた、この地球上の全てのカリスマ運動の教祖として崇められている神学者に、ハンス・ウルス・ファオン・バルタザールHan Urs von Balthasarと言う人がいます。彼は、ザニッチ司教がメジュゴリエの聖なるカリスマ運動の指導者トマスラヴ・ヴラシッチ師を排斥したと言うことで、非常に厳しい手紙をこの司教に宛てて書きました。手紙の内容は次の通りです。

「司教様、あなたはなんと悲しい文章を全世界中に送ったのでしょうか!司教職がこれ程退廃した[ソノママ]のを見て、私は深く悲しみました。あなたに人々が勧めるように、忍耐強くある代わりに、あなたは高みから、あなたの世話と保護を受けるに相応しい尊敬すべき、無実の人々[これはヴラシッチ師のこと]を否定し、厳しい雷を落としました。・・・私はあなたが誠実に主と聖母に祈ることを期待します[ヒドイ!]。メデュゴリエでかくも熱心に祈る人々全てと交わりなさい[コンドハ、メイレイ]。敬具」

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

11 幻視者の霊魂の実り(メジュゴリエ)

11 幻視者の霊魂の実り

f:id:medjugorje:20180406232052j:plain



 超自然の出現には、幻視者において、常に徳への前進が見られます。私たちは彼らの美徳について判断する資格はありません。しかし、彼らの誠実さについてみてみましょう。つまり、彼らの言うことは信頼が置けるのかどうかと言うことです。

 ザニッチ司教は確かな証拠を持って幻視者を嘘つきだといいます。まず、彼らは1981年6月24日丘の上に散歩に出かけた動機について嘘をつきました。6月30日チェルノCernoへ行った動機について嘘をつきました。彼らの預言通りにことが起こらないと、彼らは出現がもうすぐ終わると告げたことを否定しだしました。約束の偉大な印がいつ起こるかについて正確な日付を示した、という事実を彼らは否定しました。無条件の癒しが起こるという約束を伝達したことを否定しました。出現は、反抗的なフランシスコ会士たちに対して悪い態度を取ったことで、司教を告発するメッセージを与えました。しかしこのことについて、彼らは何度も嘘をつきました。

 ロランタン師は明らかな嘘でも幻視者を弁護しようと詭弁を使っています。

「幻視者たちは秘密を守らなければならないという難しい状況に置かれていました。[しかし、司教が、幻視者を嘘つきだと告発するのは、ほとんどの場合秘密とは全く関係ありませんので、この議論は当たりません。]彼らは、まだ子供です。[しかし、ロランタン師は1981年に既にこう書いていたではないでしょうか。『聖母を見た6人はもはや子供ではない(一人を除いて)。彼らは皆16歳から18歳までの年齢で、思春期という不安定な時期は通り過ぎています。』(p29)と。その当時では、その首謀者ヴィッカは21歳、最も若いヤコブは14歳だった!何が子供なのでしょうか!?]・・・難しい状況の脅迫を受けた状況下で、外交的な言葉を言ったとして、それを嘘だと言うべきでしょうか。・・・幻視者たちのした、難しい状況下での身のかわしは、地中海の国における、通常のやり方の範囲を越えていません。・・・」

 こうして、ロランタン師は「地中海の国では」嘘をつくのが「最上のやり方」であって「通常のやり方」だというのです。私たちは、このようなことを初めて聞きます。これがカリスマ運動の新しい道徳規範なのでしょうか?実際ロランタン師も「難しい状況下では」頻繁にこの「通常のやり方」に避難するようです。

 カリスマ運動の推進者であるスプリットの司教、フラニッチFranic司教は幻視者たちの「嘘」は重要ではないと次のように説明しています。

「一般的に、カリスマ運動者は、自分の言う全てのことにおいて熟しており、聖霊の息吹によってことを行うのであるから、それがたとえ司教であったとしても、自分の長上にでも、真理を言う義務がない。もし、この長上が霊に従って行動しておらず、刷新運動の利益に合致していないときには、である。この原理を、個々に適応しよう。メデュゴリエフランシスコ会士と、幻視者たちとは、御出現という全てにおいて聖なることのため、この御出現を守るために、(そして、この御出現は確かに本物である、何故なら、聖霊が彼らに、おのおのに、自分の最も奥深くでそれを感じさせてくれるからであるが)司教に嘘をつくのである。これは、嘘にはならない。さらには、ザニッチ司教は真理を知るいかなる権利も持っていない。何故なら、彼はカリスマ運動者ではなく、真理を理解することが出来ないからだ!この、カリスマ者でないものにとって、多かれ少なかれ、こうやってあからさまに、故意に真理を軽蔑すること、これがメジュゴリエのカリスマ者と、その司教との間に起こった、ヴィッカの日記に関する論争の根元である。そして、カリスマ者はこの日記を彼に知らせることを拒否するのである。」

 いや、カトリックは昔から、真理を愛し、嘘を憎みます。嘘つきは天主からの真の伝令者とはなり得ません。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

10 印と不思議(メジュゴリエ)

f:id:medjugorje:20180408231947j:plain

 

 

 

10 印と不思議

 メジュゴリエの「奇跡」は数多いがいつも奇妙奇天烈で、疑問を抱かせるものです。

1981年6月にはヴィッカはトラクターの道具箱の中に「天からの神秘のロザリオ」を見つけました。1981年8月2日には、150人が新しい太陽のダンスを見ました。ある晩には、「地が裂けるかのような」ものすごい轟音が聞こえました。また別の機会には、地の下からゴスパが出て来るようなシルエットを人々は見ています。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

10 印と不思議(メジュゴリエ)

f:id:medjugorje:20180408231947j:plain

 

f:id:medjugorje:20180408231947j:plain

 

10 印と不思議

 メジュゴリエの「奇跡」は数多いがいつも奇妙奇天烈で、疑問を抱かせるものです。

1981年6月にはヴィッカはトラクターの道具箱の中に「天からの神秘のロザリオ」を見つけました。1981年8月2日には、150人が新しい太陽のダンスを見ました。ある晩には、「地が裂けるかのような」ものすごい轟音が聞こえました。また別の機会には、地の下からゴスパが出て来るようなシルエットを人々は見ています。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

3:9 謙遜の雰囲気(メジュゴリエ)

第3部メジュゴリエ・続(霊の識別:3-9)

9 謙遜の雰囲気

 

f:id:medjugorje:20180406232052j:plain

 謙遜は全ての天主からのものの印です。

 ヴィッカは、50回目の出現から、1万5千人もの人が既に出現地に来るようになったことを語っています。ブバロ師はこう尋ねました。「はい、でもどうやってそこまでになったのでしょうか?聖母はあの国この国と現れましたが、聖母を見ようとそんなにも人は集まりませんでした。」

 ヴィッカは答えます。「ここはメデュゴリエです!ここには、聖母は特別な仕方でお現れになるのです。聖母は、以前どこでもこのようなことをなさいませんでしたし、将来もなさることがないでしょう。ゴスパはそのことを何度も言いました。」

 実に、メデュゴリエのゴスパははっきりこう言いました。

「私は世界を回心へと呼びかけに来ましたが、これで最後です。何故なら、私はもはや地上に現れることはないでしょうから。」(ゴスパは、地上における最後の御出現だと言いました。)

 1985年の聖木曜日にはゴスパは幻視者たちにこう宣言します。「・・・私は、世の始まり以来、歴史上かつて存在したことのない方法で、あなた達にメッセージを与えようと望みます。私の呼びかけに答えてくれて有り難う。」

 メデュゴリエのカリスマ運動の出現は、自分のことを謙遜に、イエズスの聖心の御出現されたパレ・ル・モニアルよりも、リュ・ド・バックの御出現よりも、ルルドよりも、ファチマよりも、新約・旧約時代の天主の御出現よりも、遙かに上回る大出現だと位置づけるのです。メデュゴリエの出現こそ、この世の始まり以来、かつて無く、今後も無いほどの、最高の御出現であるというのです。謙遜にも!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村

3:8 癒し(メジュゴリエ)

第3部メジュゴリエ・続(霊の識別:3-8)

8 癒し

 

f:id:medjugorje:20180406232052j:plain

 このことについては、2つの質問を出さねばなりません。

1)メデュゴリエ正真正銘の癒しが生じたか。

2)出現によって或る病の癒しが約束された場合、その癒しが本当に生じたか。

 モスタールの司教であるザニッチ司教によって強調されたのは、この第2の点でした。そしてそれは全く正しい判断です。もし御出現がある病の癒しを約束したにもかかわらず、それが治らなかったとしますと、出現は約束を破ったことになります。これは、この出現が聖母からのものではなかったと言うことの証拠になります。

 ザニッチ司教はそのレポートの中でメデュゴリエの聖母が癒しを約束した5つの件をあげています。しかし、聖母から癒されると約束された彼らは、その後数週間か数ヶ月で、全員死んでいます!

 ヴィッカの証言はこれに関して矛盾だらけです。ヴィッカはブバロ師と対話します。

「私は、聖母が時々何らかの癒しを預言されたことがあったかどうかを知りたいのですけれど。」

「決してありません。私の知る限り。ゴスパはいつも信仰、祈り、天主のみ旨への依託、において堅忍すること、それだけを勧めます。」

「幼いダニエル・セッカ君の件はそれでも少し奇妙だな。カセットに録音された内容によると誰か[つまり、ゴスパの言葉を伝達した幻視者の一人]が、直ぐに、『彼は治るでしょう』と何も条件も付けずに言いました。」

「でも、動揺の中で、誰が全てを考えることが出来たでしょうか。[大切なのは全てを考えることではなく、出現が言ったことをそのまま正確に繰り返すことなのに!]そう話した人は[一体どの幻視者の話をしているのでしょうか?]聖母がダニエルの両親に生ける信仰、祈り、断食を求めていたことを良く知っていました。しかし、彼がそれを大きな声で言わなかったというのはあり得ることです。[こうしてまんまと責任回避!]」

「もう一度言いますが、あなたは聖母が全く無条件にある一人の男の子の癒しを約束されたと私に言いましたね。」

「誰の話ですか?私は覚えていません。」

「膝の上で足を切断した男の子です。そして、聖母は『約束の印が明らかにされた後で、無条件に聖母が彼をいやす』と告げられたのでしょう。」

「ああ、そう。そうそう。聖母はその時多くの癒しを約束されました・・・」(Babulo)

 メデュゴリエでは、明白で、無条件の癒しの約束が多くあるのです。ザニッチ司教がそれらの約束が守られたかどうかよく調べることを主張するのは、理にかなっているのです。

 ロランタン師はディアラ・バシレと言う女性がいやされたことをリポートしています。しかし、彼女は「内的に熱いものを感じて」癒され、これは、ペンテコステ運動の癒しと共通します。メデュゴリエを動かす霊とペンテコステ運動の霊は全く同じ霊なのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村