メジュゴリエの偽聖母

カトリックの一部の者が惑わされている私的啓示「メジュゴリエの聖母」は神からのものではありません。それは公にも私にも容易に確認ができます。

2:4 カトリック教会における聖霊降臨運動の浸透

第2部メジュゴリエ

カトリック教会における聖霊降臨運動の浸透(霊の識別:2-4)

 

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 オコーナーはこう書いています。「1966年春にさかのぼる。ペンシルバニア州ピッツバーグのデュケーヌ大学(あたかも聖霊修道会士の経営する)で、2人の平信者学生が、いろいろな典礼・黙想・布教的活動に活躍していた。しかし二人とも努力の結果に失望し、初代の信者がしたように力強く福音をのべる才能がなさそうに思えて、びっくりした[ママ]。二人は、互いに祈り合って、聖霊の賜物にみたされるように約束し、毎日、聖霊降臨のミサの続誦を唱えるように協定した。…二人はこの年[1966年]の間ずっとこの祈りをつづけた。その結果何が起こったかの詳述は割愛するが、本書のねらいからいって、ここでは、約20人の学生や職員が、生活上深刻な宗教的変革を経験したというだけにとどめておく。彼らはことに、活けるキリストの真実の親身な接触に入った。この事件はまた、初代教会に見られたようなカリスマ特能的活動の姿によって特徴づけられた。かれらの多くは、異語の賜物をうけ、数人はほかの賜物(予言、知的洞察力、祓魔の力など)をもうけた。この経験は67年2月におきたものだが、その結果小さい祈祷団が結成された。…(同書8~9頁)」そしてオコーナーは「この経験」が起こった「67年の春こそ、恩寵のめぐみの春であった(同76頁)」といいます。

 このオコーナーの文章ではあまり詳しくは分かりませんが、ルネ・ロランタン(Rene Laurentin)神父はその著書『カトリックにおける聖霊降臨運動、危険と将来』(Pentecotisme chez les catholiques, risques et avenir, Beauchesme, 1975, p13, in Medjugorje en toute verite)のなかで、それはデュケーヌ大学(聖霊修道会によってピッツバーグに創立された)で、1967年1月20日に起こった、と書いています。ロランタン神父は公会議の直後、聖霊降臨運動のカトリック教会内で発生したまさにその年、つまり1967年の8月8日『時の印』を求めて、前掲書の著者であるエドワード・オコーナーと会談をしている神父です。

 このロランタン神父によると、1966年の8月、デュケーヌ大学の平信徒の教授たちは、クルシリオ(cursillos de cristianidad、小林訳では、クルセーヨまたは「キリスト教短期新式黙想会」)に参加し、この運動で、生き生きとした信仰を見つけだすことができるだろうと期待していました。彼らは典礼運動、宗教統一運動、使徒職、平和運動などの参加を試みましたが、どれにも失望したからでした。

 同書に語られる「2人の平信徒学生」と言うのは多分にケヴィン(小林訳ではキーバン、時にはキーベン、あるいは、別のところでは、やはりケヴィンと訳されている)・ラナガンとドロシー・ラナガン(Kevin & Dorothy Ranaghan)ですが、彼らの語るところによると、これらの運動は、空っぽで、ダイナミズムに欠き、祈りの生活と行動に力を失っているように思えたそうです。

 このクルシリオの間、教区の学生達の責任者であるスティーヴ・クラーク(Steve Clark)とラルフ・マルティン(Ralph Martin)と出会うのです。スティーヴは、ある1冊の本を読み、その本のことばかり考えていました。スティーヴは、皆にその本を読むように強く進めるのです。それはウィルカーソンの『十字架と飛び出しナイフ』と言う本でした。これは、デイヴィッド・ウィルカーソンという聖霊降臨派の牧師の自伝です。この大学の教授たちはこの本を読み、クルシリオに欠けていたものを、まして伝統的カトリックのやり方に欠けていたものを見つけた、と思いました。それは、聖書であり、聖霊であり、カリスマでした。2カ月間もの間この牧師の本は彼らの祈り、分かち合いの土台となった。彼らは自分の人生の終わりまでにはこのようなものを得たいと願うようになっていた。彼らの1人、ラルフ・カイファー(Ralph Keifer)は、そのときもう一つ別の本を見つけだす。それは、ジョン・シェリル(JohnSherill)の、『彼らは異語で話す』と言う本であった。この本にはどうしたら霊の経験をすることができるか実際的な手段や方法が書かれていた。彼らは、ウィルカーソンが持ていたように思われるこんな力が必要だと気が付くようになって行った。どうしたらこの「力」が受けられるのか。ラナガンによると、その4人の神学の教授がいろいろな可能性を検討したという。まず、カトリックの祈りで聖霊を呼び求めつつ祈り続ける? 彼らは既にやってみた。それはオコーナーの本にも書いてある通りである。しかし彼らはそれはうまく行かなかったという。やってもやっても駄目だ!と愚痴をこぼすのである。では互いに按手し合ったらどうか。しかし彼らにはどうもそれが最善の方法とは思われなかった。結局、もっと別のところに行かなければならないのではないでしょうか?彼らの頭の中にあったのはだだひとつでした。聖霊降臨派の教会へ行こう!と。(「毎日、聖霊降臨のミサの続誦を唱えるように協定した。…二人はこの年[1966年]の間ずっとこの祈りをつづけた。その結果何が起こったかの詳述は割愛するが、本書のねらいからいって、ここでは、約20人の学生や職員が、生活上深刻な宗教的変革を経験したというだけにとどめておく[!]。」と、オコーナー神父は書きますが、これだけを読みますと、普通の読者は、彼らがカトリックの祈りをもってカリスマを受け取ったかのように錯覚を受けるでしょう。)

 もはやサイは投げられました。「霊の力」を求めていずこまでも。彼らはウィリアム・ルイスというエピスコパリアンの「司祭」に電話をしました。ルイス牧師はその教区の聖霊降臨を受けた女性と彼らを引き合わせるように約束します。1月6日、エピスコパリアンの教会にて第1回目の面会。1月13日、プレスビテリアン(長老教会派)の信者で聖霊を受けたフローレンス・ドッジ嬢(Miss Florence Dodge)の家で、第2回目の面会。

 彼女は、その少し前に祈りのグループを作り、ピッツバーグの百貨店で地位の高い教養ある女性であったといいます。そしてこのフローレンス・ドッジに会った1週間後に、カトリック教会の大刷新が行われたというのである!1月20日、デュケーヌ大学の2人の神学教授、ラルフ・カイファーとパトリック・ブルジョア(Patrick Bourgeois)は、彼女に「聖霊による洗礼」を頼み、この祈りのグループの「聖霊を受けた者」達の手から「聖霊による洗礼」を受けました。カイファーはこう語っています。「彼らはただ単に、霊の力がわたしのうちに働きだすように信仰宣言をするように求めただけでした。わたしは異語でかなり速く祈りました。…わたしはむしろ、どこからそんなものが私に出て来るのか、不思議でなりませんでした。」

 我々は、まずカトリック教会における聖霊降臨運動が、その創立に当たって、プロテスタントたちによって指導影響を受けたことが分かります。それだけではありません。その発展段階においても、いつもプロテスタントと一緒であったことがオコーナーの本によっても知られます。

 例えば、同年の3月13日には、レイ・バラードが「ノートルダムに形造られようとしていたカリスマ集団の一種の精神的名付け親になりました。レイ・バラードとは「実業家福音協会の[ルイジアナ州]サウス・ベンド(South Bend)班の会長」、サウス・ベンドのアセンブリイ教会カルワリオ幕屋聖堂の活動分子で教会役員をつとめている」全くの非カトリック者です。(35頁)」

 このレイ・バラードは「自宅の地階で各週祈祷集会をひらき」、3月13日月曜の夕方に9人のカトリックの信者もそこにいました。それは、ケヴィン・ラナガンとドロシー・ラガナン、バート・ゲッチ[30頁](あるいはゲッシ[36頁])とメリイ・ゲッチ、そしてその他5人の大学生でした。その夕方の為にレイは「その地区の数人のすぐれた聖霊降臨教会牧師をふくむリーダーを招いておいた」。「牧師の一人が聖霊の賜物について語り、もう一人は質問に答えたりした。それから居合わせた20人ばかりの聖霊降臨派信者がノートルダムの仲間をかこみ、かれらのために祈りはじめた。かれらは異語で祈り、数分のうちに一人また一人とついにはノートルダム仲間の7、8名も同じように異語で祈った。[!](36頁)」

 彼らは、黙想会中カトリック聖職者の指導を一切受けていませんでした。「すべてが不思議に包まれているさい指示を与えられる者はいないはずだから[!!]指導者はおかぬことにした(51頁)」のです。

 ロイ・ウィード(サウス・ベンド地区におけるアセンブリ・オブ・ゴッド教会の最大のものたるカルワリオ幕屋の牧師)を父に持つダグラス・ウィードは、カトリック信者が自分たちと同じ「聖霊」を、やはり同じく受けることができるか懐疑的でした。しかし、同年4月7日から9日にかけて、ミシガン州立大学での黙想会が、聖霊降臨のカトリック信者の強い影響を受けて開かれ、それを自分の目で確かめに来たダグラス・ウィードは「兄弟らよ、カトリック信者も[!]聖霊[ママ]を受けられるのを見て、いかほど私も喜んでいるか、とても言い表せません」と熱狂しました。

 4月14日以降、「サウス・ベンドの聖霊降臨派の教会の人々は、ノートルダムの祈祷集会に行きはじめ(72頁)」、「やがて聖霊降臨派の既存の教会の連中も、祈祷集会に参集しはじめた。ルーテル派、長老派、プレスビテリアン、バプチストなどの多数が参加した。…宗派のちがいは重大問題をもたらさず、むしろ教理の違いの下でかれらを結束する[!!]キリストの兄弟愛に気づかせた。…この間にも、聖霊降臨集団が、近くのバルパラインのルーテル派大学で盛んになってきた。それとノートルダム集団との間に、暖かい友情のきづなが生じ、お互いの祈祷集会に自分らの仲間をおくりこむようになった[!!]。…多くの宗派の信者は一緒に[=共に]神に[一体どの神に?]祈り、神を礼拝するようになり、その上、自分らの教理[異端と誤謬に満ちた自分の教理]を否定したり縮小したりすることなしに[!]、共通の神の愛、イエス・キリストの信奉によって[彼らは一体どんな信仰を、どんな信奉を持っているというのでしょうか?]そうなったのである。(73~74頁)」

 69年には、4月25日から27日にわたって「全国的[全合衆国的]と言える最初のもの」が開かれました。25〜30人のカトリックの司祭もいたそうです。

 オコーナーはこう書いています。「プロテスタントやペンテコスタル諸教会からも客員として多数出席しました。その中には、ペンテコスタル教会の主流派の最も有名な代弁者たるデビド・デュプレシスもふくまれていた。(91頁)」

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